後野遺跡は、茨城県ひたちなか市中根地内にあり、那珂川の支流が解析した丘稜上に位置する。住宅に囲まれた中に、現在でも学校建設予定地のまま削平された空き地が残されていて、そこに遺跡の解説板が立つ。JR常磐線勝田駅からは、東方向に約4qの距離である。
1975年、中学生が石器を採取したことが発端となり、市教育委員会により急遽の発掘調査が実施された。
発掘調査では、石器が採取されていたA地区の他に、20mほど離れたB地区からも石器群が出土し、これらは層準が異なる2つの石器文化として報告された。
A地区の87点の石器群には、彫器−掻器、削器、尖頭器、石斧を含む。剥片石器の石材は、ほとんどが東北地方産と推定される硬質頁岩であり、黒耀石についても後年、蛍光X線分析により青森県深浦産と判別されている。このA地区には、37点の土器片が伴う。
B地区の184点の石器群は、細石刃と細石刃石核、彫器、削器、礫器などで構成される。これらも礫器を除き、石材は全て硬質頁岩である。後期旧石器時代の最終末期に位置付けられ、削片系細石刃石核、荒屋型彫器などに北方系の特徴が認められている。
後野遺跡A地区は、長者久保・神子柴石器群に土器が伴う事例として大きな注目を集めた。表面が撫で調整されただけの無文土器である。1975年には青森県大平山元T遺跡からも無文土器が検出されており、後年に放射性炭素年代測定値の暦年較正で15,500〜16,000年前という年代が推定されている。
後野遺跡A地区の石器群及び無文土器の層準は、「黄褐色パミス層」と記載されており、このパミス層は今市・七本桜テフラ(Nt-I・S)に相当する。但し、当時の写真を見直してみると、純層ではなく、今市・七本桜テフラの粒子が混じる軟質ローム層中であるらしい。今市・七本桜テフラの噴出年代は放射性炭素年代測定値の暦年較正で14,000〜15,000年前と推定されており、それ以前の年代が考えられるものであろう。
出土遺物は、茨城県指定文化財に認定され、ひたちなか市埋蔵文化財調査センターに展示されている。